大韓帝国皇帝の密使 - ホーマー・ハルバート

明治時代末に韓国で活躍した元宣教師に、ホーマー・ハルバート(Homer B. Hulbert, 1863-1949)という米国人がいる。彼は1907年のハーグ密使事件を首謀し、その後は韓国に戻らなかった。1949年大韓民国の李承晩大統領に招待され 1 、病身をおして単身韓国を再訪したが、ソウルに着くとすぐ入院し、そのまま亡くなった。米紙の死亡記事は、彼を"a former adviser to the ex-Emperor of Korea"と呼んだ。彼は、ハングル研究の先駆者の一人であり、漢字をまじえずにハングルだけで記述された最初の教科書 Samin p’ilchi (士民必知)を作るなど、韓国における出版・教育普及に力を注いだ。


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Homer Hulbert (1893頃).

高宗とハルバート

李氏朝鮮、大韓帝国の実質上の最後の皇帝、 高宗(コジョン) (1852-1919)は、道楽のように拙劣な陰謀を繰り返しては、みずからの墓穴を掘りすすめた。桜雲閣主人こと小松緑は、その人物像を「如何にも寛仁大度の君主」に見えて、その実は、「良心は荒み分別は乱れ、たゞ汲々として一時の偸安為楽にのみ屈託」と評している。このような評価は、当時韓国事情を調査した米国人たち、ジョージ・ケナン 2 、ジョージ・ラッド 3 などのそれに共通する。

ケナンはおそらく第二次日韓協約締結(1905.11)の少し前に韓国を調査した。彼は1905年10月からThe Outlook誌に三回連載で"Korea: A Degenerate State"(「韓国 - 退行国家」)を掲載した。そこで、高宗のもとでの法治の不在を指摘し、「このような支配者に助言して国の改革をしようというのは、あふれる水槽の水を (ふるい) で汲み出そうとするようなものだ」と書いた [kennan051]

哲学者ラッドの評価 [laddg15] は、あえて紹介しないが、さらに辛辣、ときに激しく感情的である。ラッドは、同時に、韓国在住の外国人、なかでも一部の米国人が高宗や 両班(ヤンバン) (韓国の士大夫階級)の無知、無定見につけこんで、彼らに無謀な動きをさせていることに憤った。

冷静、客観的で、もっとも厳しい評価は、ジェームス・ゲイルによる。彼はカナダ生まれの宣教師、教育家、ハングル研究者かつジャーナリストとして韓国に長く滞在し、高宗とも親しく接した 4 。彼によれば、韓帝の目は頭のうしろについていて、かつて何の進歩ももたらそうとせず、何の改革もおこなわず、時代と日本とのいずれにも向きあおうとしなかった。

日本の手によるのでなくとも、まちがいなく、二十世紀そのものが老いた皇帝と
彼が体現していたすべてのものを潰したに違いない。

James Gale, "Korea in Transition", Eaton & Mains, New York, 1909.

このような高宗の人物とその政府の救いがたい状態を良く知りながら、ハルバートは高宗の陰謀に深く加担、あるいは首謀することになる。

When General Kuroda and Count Inouye anchored off Seoul in February, 1876,
it was with the purpose of either making a treaty or beginning war. It
turned out to be a peaceful mission, and the treaty was secured.
Korea was then for the first time recognized as an independent power.

1876年2月、黒田将軍と井上伯爵がソウル沖に停泊したとき、条約を結ぶか戦争を始めるかの二つに一つだった。結局、平和使節として、条約を結ぶことになった。
ここに初めて朝鮮は独立国として(国際社会に)認識されたのである。

(Horace N. Allen, "The Awakening of Korea", in George H. Blakeslee ed., "China and The Far East", New York, T. Y. Crowell & Co, 1910.)
* Horace N. Allenは朝鮮-韓国の前米国公使(1897-1905)

1876年の江華島条約でようやく「自主の邦」として形をなしてきた韓国にとって、近代化が難事業であることは間違いなかった。他方、列強が韓国の近代化にかかわるのは、労多くして益の乏しい事業となるということも確かであり、ロシアが韓国のために資本を投じるはずもなかった 5 。ハルバートは、もともとは、韓国の近代化には日本の支援が不可欠であると主張していた。だが、彼は、1905年の第二次日韓協約には激しく反発した。この協約のもとでは、ハングルをはじめとして、朝鮮の伝統文化が失われてしまうことをもっともおそれた。彼は、日本と朝鮮との文化的・社会的違いを説き、 "transforming power of Christianity"(キリスト教の変換する力) こそが、朝鮮の文化的特質を保ったまま、近代化を可能にするのだと主張した。

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どれほどの時間がかかっても、それが正しい道とハルバートは考えたのであろう。しかし、どの国も生存をかけて「時代」とたたかっていた。ゲイルの指摘したとおり、大韓帝国は日本の形をとった「時代」によって「変換」された。それからほぼ四十年後、 「国体を変換」 する勇気のなかった大日本帝国は、米国の形をとった「時代」によって「変換」されることになった。

1905年(明治38年)11月末、ハルバートは、セオドア・ルーズベルト大統領に宛てた高宗の親翰をもってワシントンに行った。韓国の主権を保つべきことを米国に訴えた、この親翰は、しかし、国務長官ルートによって公文書としての受け取りを拒絶された。事件の報をうけた伊藤博文は、高宗を 糺問(きゅうもん) することもなく、無視したという。

米国滞在中、ハルバートはケナンとも意見交換をした。しかし、ケナンはあらためて、韓国政府をそのままにして近代化の実をあげることは不可能と書いた [kennan052]

ハルバートの雑誌"The Korea Review"は、彼の不在中も代行の編集者によって刊行されていた。同誌は、第二次日韓協約を"the extinction of the nation"(国の消滅)と呼び、協約に反対して自決した 閔泳煥(ミン ヨンファン) の追悼記事を、その遺書とともに載せた。その一方で、エディトリアルには、日韓の協和による韓国の近代化のために伊藤統監の手腕に期待するとの文章を、皮肉をこめて記した。

結局、ハルバートは期せずして、韓国近代化の最大の障害をとりのぞくのに手をかすことになった。1907年(明治10年)7月1日、第2回万国平和会議の開かれていたハーグに三名の韓国人がハルバートらとあらわれて、韓国全権としての参加をもとめた。いわゆる「ハーグ密使事件」である。列強は、韓国が外交権をすでに日本に渡していることをなどを理由に、彼らの参加を認めなかった。

事件は日本国内で大きくとりあげられ、伊藤博文も無視することができなくなった。同月、伊藤統監は韓国政府に高宗を退位させた。さらに、第三次日韓協約を結び、外交権に加えて韓国内政も日本の管理下に置いた。とはいえ、韓帝と日本政府統監との「両頭の蛇」(小松 緑)という状態にはかわりなかった。

1910年に米国のプロテスタント宣教会が、朝鮮布教25周年の事業評価を実施した [missions10] 。1893年、1907年と、二度朝鮮を訪れた宣教師は、こう証言する。

以前は鉄道は1マイルもなかったが、いまや700マイル近くが開通している。ソウルの
街は、かなりの変貌を遂げた。道路が整備され、とてもしっかりした公共・民間の
建築が見られ、公共の水道が引かれ、市街電車が設置された。

1907年に朝鮮を訪れたラッドはその貧しさに驚いたのだったが、それでも、その15年前に比べれば大変な変貌をとげていたのである。

しかし、両国間の長い歴史的経緯からして、朝鮮人の民族意識が、強制をうけずに日本の保護を受け入れるはずもなかった。伊藤は日韓併合に反対しながらも、その打つ手は事実上の併合を進めていく結果となった。

日清、日露での日本の躍進は、世界に民族主義のたかまりをもたらす一契機となった。すでに日露戦争の直前、 シベリヤ鉄道経由でペルシャの元宰相たちが日本に学びに来た のもそのためである。しかし、日本にとって民族主義は不都合なものになった。やがて、宣教師たちが日露戦争前から使っていた 児童向け読本に検閲 をいれるまでになった。


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シベリア鉄道旅行案内

1903年のThe Korea Reviewは"Across Siberia by Rail"という旅行案内を連載した。その4月、ハルバート、ゲイルと数人の米国人、日本人が京城を発ち、シベリア鉄道を使ってヨーロッパに向かった 6 。これはその体験に基づくものである。以降、韓国から欧州方面に行くのにシベリア鉄道が便利な手段として利用される。

(なお、ハルバートが高宗の密使としてハーグに向かったときは、1907年4月に韓国を発ち、いったん日本に渡ってから、ウラジオストックに行き、そこで韓国人使者たちと落ちあい、シベリア鉄道に乗った 7 。)

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シベリアー東清鉄道 (1940年代の地図に基づく。 ` Bartholomew's general map of Asia, John Bartholomew & Son, [194-?]. <https://www.loc.gov/item/2006635248/> ` 地名は日露戦争当時のものを記入。)

  1. ハルビンまで

まず、最初の問題は、どうやって鉄道の発着駅、大連にたどりつくかということである。

(1)長崎に渡り、毎木曜の大連行きの船に乗る、(2)上海から大連行きの船に乗る、(3)船で日本、釜山、チェムルポ(仁川)、中国煙台、旅順と経て大連にいたる。

次に、両替に注意する必要がある。円とルーブルとはほぼ等価だが、大連で円をルーブルに替えると3-5%割り引かれてしまう。

大連(Dalny)では英語がまったくといってよいほど通じないし、ホテルの客室数が限られる。まともなホテル(Hotel Dalny, Hotel Russie)の室料(食事別)は2.5-3ルーブルである。食事はおおむね1ルーブルであり、Hotel Dalnyでとることを勧める。米国領事館もHotel Dalnyにある。

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1904年頃の大連 鉄道に連絡する汽船の出航風景

著者の旅行時(4-5月)はモスクワまでの切符が買えたが、この7月から大連ではロシア国境のマンチューリまでの切符(1等、108ルーブル)しか買えなくなった。その先の切符はマンチューリで買わなければならない。

列車は上質で食事(1食1ルーブル)も悪くない。1等客室は定員2名で、幅5.5ft、長さ6ft、天井高10ftと、きわめて広い。窓は二重になっている。1等と2等とで、客室に大きな違いはない。浴槽つきの浴室や、喫煙室の類はない。

日曜日、大連を夜おそく出て、朝にはアイオワやイリノイを思わせる広大な大麦あるいは小麦の農地のひろがりを目にした。荷車をロバやラバに引かせていく。村々の周囲には柳が多い。

正確ではないが、列車は20km毎時ほどの速度で進んだ。半時間おきに駅にとまり、停車時間は5分程度であった。プラットフォーム上では双眼鏡の類は禁止されているらしい。しかし、列車の窓から双眼鏡で見るぶんには、別に注意もされないが、カメラは駄目なようだった。

やがて、奉天の市街が東方1〜2マイル先に見えた。

月曜日、朝、まだ広大な農地の間を進んだが、しだいに、耕作地の印象は貧しいものに変わっていった。いくどか川を渡ったが、橋の多くは急ごしらえのものだった。土地はしだいに起伏を増していった。

午前10時、スンガリ川(松花江)南岸のハルビンに着いた。ここで、ウラジオストックからの線と合流する。ハルビンは最近5年のあいだに、魔法のように生まれた街である。ここでは、満州からの客は乗り替えの必要はなく、ウラジオストックからの客が乗りこんできた。ハルビンを出て、列車はミズーリ川を思わせるスンガリ川の大橋を渡った。

  1. ハルビン 〜 マンチューリ

ハルビンから先は、北満州の広大なステップ地帯に入る。景色はアメリカの大西部を思わせる。鉄路はどこまでもまっすぐに続く。そして、大興安嶺山脈に向かう。

列車ではまともな水が手に入らなくなり、歯をみがくことも難しくなる。携帯の水フィルターや身体を拭くための大きなスポンジをを持って行った方が良い。食費は、4人家族であれば、一日4ルーブル(円)でなんとかなるであろう。

大連からロシア国境のマンチューリまでは4日間である。5マイルごとに小さな駅があり、わずかばかりのモンゴル風の小屋がある。

火曜日、山岳地帯に入っていく。このあたりでは、汽車の燃料にする木材がレールわきに、つんである。斜面に雪を見る。午後、こんなところに韓国人労務者の集団がいるのに驚いた。

大興安嶺のトンネルは工事中である。列車はスイッチバックで急坂を登る。鉄道の最高点の海抜は五千フィートほどだろうか。そこに、キンガンという町がある。山を下るうちに夜になった。

  1. マンチューリ 〜 イルクーツク

水曜日、大連から80時間、国境の町、マンチューリに着いた。ここで通関手続きがあるので、すべての荷物を下ろす。荷物検査は入念だが、手荷物はほとんど調べられなかった。

マンチューリでポーランドのワルシャワまでの切符が買えた。マンチューリ-ワルシャワの二等の切符代は119.2ルーブルで、うち寝台が25ルーブル、急行料金が30ルーブルほどである。切符は21日間有効なので、途中モスクワ見物もできる。寝台もいらず、急行である必要もなければ、運賃は半分ほどですむ。それでも客室の質はそれほど落ちない。切り詰めるなら、大連からロンドンまで、運賃は食費も入れて、200円(ルーブル)で十分であろう。

ロシア国境ではパスポートの提示は求められなかった。また、マンチューリでは乗り換えることもなくバイカル湖岸まで行けた。線路はゆるやかな起伏をたどる。

木曜朝、鉄路の最高点は3-4,000ftほどか、そこから木々の間をバイカル湖に注ぐセレンガ川の雄大な谷をめぐり、下っていく。

金曜日早朝、バイカル湖は氷で覆われていた。湖岸沿いに少し南に下り、ターミナルに着いた。湖岸を南にまわりこむ線路は難工事で、まだ出来ていない。当面、20マイルほどの湖上を、冬は橇で、それ以外は蒸気船で渡ることになる。

そのあたりで氷の厚さは、まだ、4-6ftほどもあった。蒸気船は氷を押しのけながら進んだ。氷が厚く張っているところでは、前後進をくりかえしながら、氷を砕いた。なかほどで、船の通り道をつくっている、大きな砕氷船と出会った。その作業のさまは壮観だが、5月はじめまでしか見ることができない。

湖を渡るのには、結局、2.5時間かかった。そこは、アンガラ川の河口になっており、バイカル湖の水はそこから北極海に向けて流れ出る。桟橋近くに列車が待っていた。買った切符とは列車の種類が違っていたが、迷った末、その列車に乗った。

30マイルほどで、アンガラ川北岸にある、シベリアの中心都市イルクーツクに着いた。駅からの市街の眺めは見事だった。ここまで5日と19時間かかった。この分では、あと6日でモスクワに着く。大連からロンドンまでは16日、言い換えれば、長崎からロンドンまで18日となる。汽船を使ったとしたら遥かに高い費用で40日はかかる。

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イルクーツク市眺望(1900年頃) [clark04]

  1. イルクーツク 〜 モスクワ

イルクーツクを金曜午後6時に発った。大連からイルクーツクまでは2,200マイル、イルクーツクからモスクワまでは3,400マイルある。イルクーツク - モスクワ間はちょうど7日間を要した。この区間の鉄路はバイカル湖より東側のそれに比べて完成度が高く、列車もずっと速く走ることができる。

イルクーツクからウラル山地までは広漠としている。鉄路はいくつもの川と直交する。チェリャビンスクから先、ウラル山地ではさほど高いところは通らずに、深い松林のなかを進む。この山地をほぼ一日かけて通過する。

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ヨーロッパ・ロシア境界あたり (1900年頃) [clark04]

この山のなかで、湖のほとりに美しい町を見出した。旅行者が、やっとヨーロッパに入ったのだと感じるのは、このあたりである。西側に斜面をおりると、ヨーロッパ・ロシアに入り、見渡すかぎりの麦畑が広がる。遠目に、このあたりの農村の佇まいはと韓国の農村とほとんど異ならないように見える。

ボルガは雪解け水であふれており、四千フィートの アレクサンダー橋 を渡ったとき、広大な水の広がりを目にした。

やがて、遠くに金色に光るモスクワの尖塔群が見えてきた。大連を出てから13日間はかからなかった。


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「『シベリア鉄道-東清鉄道』の旅行者たち」に戻る


2024年4月18日


1

最初の招待は1948年の大韓民国発足の前に出されたが、ハルバート夫人(11月死去)の病のために断っていた。

2

George Kennan (1945-1924)は、1890年代にロシア事情に詳しいジャーナリストとして名をなした。後に、AP通信記者として米西戦争、日露戦争等を報道した。ソ連封じ込め政策を主導したGeorge Frost Kennan(1904-2005)の大叔父にあたるので、区別するために、George Kennan "The Elder"とも呼ばれる。

3

George Turnbull Ladd (1842-1921)は米国の牧師、哲学者、心理学者で、William Jamesらとともに米国の心理学研究の基礎を作った。日本にはたびたび訪れて各地の大学で講演し、1907年春には伊藤博文韓国統監の非公式アドバイザー格で韓国を訪問調査した [ladd08]

4

James Gale はハルバートらとともに、1895年10月の閔妃暗殺事件後の11月27-28日に高宗を守るために交替でその身辺を囲んだ宣教師たちの一人である。(Editor's Profile of Hulbert, in Homer B. Hulbert, "History of Korea - Vol.1", 1905, Routledge and Kegan Paul, London)

5

"Retrospect of 1903", The Korea review, v.4 1904.

6

"News Calendar", The Korea review, v.3 1903, No.4 (APRIL). なお、ゲイルはこの鉄道旅行の日誌を残している [rutt83] 。それを見ると、同時期に旅行に出たものの、行程はハルバートとちがっていたように見える。

7

ソウルでソンタグ・ホテルという外人専門のホテルがあり、たびたび宮廷関係者と外国人の謀議に使われた。その主人、ソンタグ女史(Marie Antoinette Sontag, 1838-1922)は、もとはロシア公使の家政婦だった。1896年から1年間、高宗がロシア公館に逃げこんでいたあいだ、ソンタグのいれるコーヒーや菓子が高宗の心をつかんだという。以降、高宗はソンタグを寵愛し、彼女は宮廷に自由に出入りしていた。1907年5月、ハーグ密使事件を嗅ぎつけたソンタグ女史が高宗を詰問し、日本-ペテルブルク経由でハーグに向かおうとしていたハルバートがまだ日本にいるうちに、電報で呼びかえせとせまったという [ladd15]

kennan051

George Kennan, "Korea: A Degenerate State", The Outlook 1905-10-07: Vol 81 Iss 6, pp. 307-315.

kennan052

George Kennan, "The Japanese in Korea", The Outlook 1905-11-11: Vol 81 Iss 11, pp.609-616; "What Japan Has Done in Korea", The Outlook 1905-11-18: Vol 81 Iss 12, pp. 669-673.

laddg15

George Turnbull Ladd, "Japan in The Orient - Part One - Korea", J. Race Development 6(1915)113-144.

ladd08

George Turnbull Ladd, "In Korea with Marquis Ito", Charles Scribner's Sons, New York, 1908.

missions10

"Competent witnesses on Korea as a mission field", New York, Korea Quarter-Centennial Movement, Board of Foreign Missions of the Methodist Episcopal Church, 1910.

rutt83

Richard Rutt, "James Scarth Gale and his History of the Korean People", Seoul : Seoul Computer Press for the Royal Asiatic Society, 1983.

clark04(1,2)

Francis E. Clark, "The Great Siberian Railway; What I Saw on My Journey", S. W. Partridge & Co., 1904.