上杉慎吉の最終戦争

最終戦争というと、石原莞爾が昭和15年(1940)に出した「世界最終戦争論」を思い出すのが普通である。一般に、国家間が総力戦を戦う「最終戦争」が仮想的にイメージされるようになったのは、第一次世界大戦後からと言って良いであろう。その中で、仮想を超えた議論の先駆けとして、天皇機関説批判で名をなした上杉慎吉が、大正13年(1924)に「日米最終戦争」について論じている。

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(イメージ出典 1 )

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明治の憂国者

先生も亦た維新前には飲ず喰ず奔走なさったでは御座りませぬか其れでも天下の有志家
と称してとうとう王政維新をなされ今の賞典禄の公債証書で斯く安楽においでなさるで
御座りませう
(中略)
いやいや維新前の有志家が奔走した時と今日とは大違ひ二十年以前は一文なしで日本国
中を飛んで歩いても一向に差支へない(中略)有志家を尋ねて一泊すれば亦た先きの有志
家へ忝書を貰ひ(中略)大勢相会すれば大名に請求して兵糧を借る事もある(中略)今の時
節は何事も金づくの話で金がなければ人が第一相手せぬ(中略)小遣銭でまごまごしなが
ら天下を憂ふるも片腹いたいものぢゃにして憂国憂国と言ふが今の書生の憂国は鼻の先
と口の先で唱ふる許り真に熱心して国家の為するものは至て少ない

明治20年、菊亭静(高瀬 羽皐(うこう) )「天保の憂国者明治の憂国者をいましむ」 [kikutei] の一節である。坂本龍馬、高杉晋作、土方歳三、大隈重信、伊藤博文、渋沢栄一、等々、いずれも天保(1830-1844)生まれである。菊亭の文は「明治の憂国者」に対して公平を欠くかもしれないが、憂国の青年たちにとって社会背景がまったく変わってしまったのは事実だった。

ペリー来航(1853)から日米開戦(1941)までは90年弱、日本人は生年が5年違えば別世代と言えるほどの激しい変化のなかを生きた。いわゆる天皇機関説の美濃部達吉は明治6年(1873年)5月生、27年に東京帝国大学法科大学に入り、憲法学を穂積 八束(やつか) に学んだ。天皇機関説批判の急先鋒、維新以来の西洋崇拝を攻撃した上杉慎吉は、明治11年(1878)8月生、同じく憲法学を穂積八束に学んだ。穂積、美濃部、上杉三者の憲法論議は専門家によってさんざん論じられてきたので、ここでは触れない。

美濃部達吉は島崎藤村(明治5年2月)、岩野泡鳴(明治6年1月)、高浜虚子(明治7年2月)と、また、上杉慎吉は正宗白鳥(明治12年3月)、永井荷風(明治12年12月)と、それぞれ同「世代」となる。

萩原朔太郎は正宗白鳥を評して「懐疑的なニヒリスト」、「ニヒリストの反面は常に必ずロマンチストである」とした 2 。美濃部、藤村、泡鳴、虚子には薄くて、上杉、白鳥、荷風に濃い共通項を求めるとしたら、「ニヒリスト/ロマンチスト」的な側面といったところだろうか。後者は、前者のようには、何かを単純に信じて創造あるいは破壊に進むことができなかった。なお、上杉、白鳥、荷風のすぐ下の「世代」は白樺派や「スバル」系の詩人たちであり、急に前向きになってしまう。( 時代の論点 参照。)

上杉の帝国憲法解釈はドイツ留学の前後で大きく変わる。国家法人説、天皇機関説を攻撃するのは留学後である。しかし、

機関とか主体とかいふのは、学者の遊戯であるといつてよい。近来学者達が欧米から
輸入した知識によって、生徒を教へる点から、機関とか主体とかいふ言語を使ふが、
事実の上からいへば、其那(そんな)言葉の事などに重きをおく必要は無いのである。

大隈重信 述、国民教育の大本、美濃部上杉二氏の憲法論爭(大正元年11月)、明誠館、
大正3 http://id.ndl.go.jp/bib/000000592164

天皇、国体をめぐる議論も、はじめは、こんな風に片づけてしまっても良かった。だが、上杉の憲法学説を裏打ちしていたのは、激しい反西洋感情である。それが世情に共鳴しなければ、議論はコップのなかの嵐にすぎなかった。他方、帝国憲法の解釈と運用が安定的になされているかどうかは、日本国内で意識される以上に、国際的な視線にさらされていた [Buell22]

上杉自身によれば、明治42年夏(1909)、彼は「鞏固なる尊王の信念」をもつ別人となってドイツ留学から帰朝した。その回心の過程は明らかではない。卑俗に解すれば、美濃部と同じようなことを言っても学者として売れないので、別の機軸を求めるのは必然であった。また、学生時代に「少数意見」というあだ名がついたという、彼の性格も与った [matenro] 。しかし、帰朝後の過激な西洋化排撃の姿勢からは、別の要因も感じられる。

日清戦争直後、1895年頃から、ドイツのウィルヘルム二世が黄禍論を主導した。ウィルヘルム二世は従兄弟のロシア帝ニコライ二世とたびたび手紙をやりとりしていた。二人のあいだでは会話でも手紙でも英語をもちい、Nicky、Willyと呼びあった。カイザーはツァーに対して、黄色人種に対抗すべき必然を説いた [levine20]

It is the grouping of Powers which is the most natural - they beeing the
representants of the "Continent" - and will have the consequence of drawing
all the other lesser Powers in Europe into the object of this great block.
Amerika will stand on the side of this "Combination." Firstly from the "Racial"
point of view, they are decidedly "White" anti "Yellow."

大陸を代表するわれら大国がグループを形成して、欧州の小国群をこの偉大な
ブロックに引き込むというのが、いちばん自然な成り行きじゃあないか。アメリカ
はこの「連帯」の側に立つだろう。まず、人種という点で、彼らはまちがいなく
「白色」であり、反「黄色」なんだ。

Kaiser Wilhelm II to his cousin Tsar Nicholas II, 26 September 1905

(カイザーの英文にはスペル、文法の誤りが多い。)

このようなカイザーの意見は、日露戦争後までは公にあからさまに表明されることはなかったが、それ以前から広く知られていた [Iikura06] 。このような時期に上杉はドイツに滞在し、それが彼の「鞏固なる尊王の信念」形成に与ったのではないか。明治37年(1904)、森鴎外が黄禍論にいちはやく着目し、わざと無名の著者 3 をとりあげながら、「白人のいかに吾人を軽侮せるかを知らしめん」としたのも、かつてドイツで学んだ者としての危機感だったろう。

明治政府は黄禍論が欧米における日本評価に及ばないように、また、日本側からの過剰な反応を抑えるように努めた。黄禍論そのものは、鴎外の予測ほどには、欧米で大きな波となったようには見えない。にもかかわらず、日本と欧米、特に米国とのあいだの関係は日露戦後、急速に悪化していった。

日米戦争の時代

シベリア-東清鉄道 の完成と、それにともなう太平洋航路、通信網の発展は、日本にもグローバリゼーションの最初の波となって現れた。緊密に結ばれた世界は息苦しさを増してくる空間として、それぞれの国民の感情を圧迫しはじめていた。その緊張は日米間で次第に強まっていく。

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米国内日本人移民とカリフォルニア州人口 4

明治40年(1907)には米国、カナダの太平洋岸でアジア系移民排斥の暴動が起きた。米国内では、相当な知識人のあいだでさえ、いずれ放置すれば日本移民が米国内に日本の植民地を作ると本気で信じられた [hart152] 。また、日露戦争後の満州において、日露が手を結んで米国の商権の拡張をはばんだことは、米国政府、財界の対日感情を悪化させていった。他方、日本側では、タフト政権(1909-1913)が強大なドルの力で極東に割りこもうとすることに、不信感をつのらせていった。

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Homer Lea, "The Valor of Ignorance"挿図 5

1909年、 ホーマー・リー(Homer Lea)"The Valor of Ignorance"(無知の武勇) が米国でベストセラーとなった。リーは、日米のどちらも望まないとしても、両国が太平洋の覇権をめぐって戦うべき必然性を指摘した。彼は、日本が生存のために、太平洋から欧米の影響を排除する 日本版モンロー主義 を必要とするのだとした。同書の出現を機に、日本の出版物上にも「日米戦争」の文字が踊るようになる。

明治40年(1907)、日本最初の「帝国国防方針」が作られたときは、第一想定敵国はロシアだった。それが、大正7年(1918)に露・米・支に、大正12年(1923)に米国にかわった [myz05] 。この間にあった欧州大戦(1914-8)は、戦争のイメージを一変させた。来たるべき戦争は、全国民がいやおうなく参加させられる総力戦となる。前線から遠くはなれた民衆の上に突然爆弾が降ってくる、それが新しい戦争の形として意識されるようになった。

ニューヨーク・トリビューン紙、1916年11月29日

数千人が大空中戦を目撃 - ロンドン空爆さる

アーサー S. ドレイパー (電信記事)

ロンドン、11月28日、早暁、今年23回目となるツェッペリン飛行艇の来襲、
英空軍戦隊は巨鳥2羽を撃ち落とした。9月1日以来、これで6羽の怪鳥を仕留
めたことになる。直後に一機の飛行機がロンドン上空に侵入し、爆弾6個を
落としていった。白日下に首都が空襲されたのは初のことであり、大きな騒
ぎとなった。

上杉慎吉は第一次大戦後パリ講和会議(1919-1920)のさなか、大正8年(1919)頃から時事論に活躍する。大正8年の「暴風来」では、欧州大戦の「交戦諸国が開戦以来悉く従来の行き掛り情実を捨て挙国一致せる」ことに驚嘆した。彼は、米国でさえ「思想の自由」を「国家の必要」の前に抑えこんでしまったことを説き、「国家第一、国家第一」と唱えた。

大正10年(1921)の論集「憂国の叫び」では、「講和会議の屈辱」を甘受することの非を主張する。維新以来の「五十年を一貫せる洋化主義」を「不治の精神病」と呼ぶ。憲法も皇室典範も「西洋模倣の跡」がいちじるしく、人心の国体に統一することを妨げてきた。その一方で、憲法による立憲政体こそが、理想国を実現する素地であるとし、普通選挙は「挙国参政」による「億兆一心護国」を可能にするものであることを説く。ただし、政治の中枢をになうのは「其の時に於て最も実力ある種類」の者たちであるべきで、それは現代にあっては「智力階級」であるという。この結論は、ひょうしぬけするほどに平凡に響くが、天皇の下に「最も実力ある少数者」が最高幹部として政治に責任を負うべきというのは、やがて軍関係者の主張するところとなる。

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第一次大戦後、南太平洋の「小ッポケな島」が日米間のトゲの一つになった 6

大正10年-11年のワシントン会議、また、13年(1924)の米国「排日移民法」の成立を受けて対米国策をめぐる講演会が開かれた( 対米国策論集 、大正13年8月7-11日、上野自治会館)。そこでの上杉の講演「日本国民の覚悟」は、どこまでも暗い 7 。彼は、同会議の他の登壇者とは、その陰鬱さの点で、きわだって異質な意見を述べた。

上杉は、それに先立つ国技館での講演会で、「面上に殺気を帯び」た八万の聴衆を前にしたとき、「(対米)問題に対して軽々しく憤激の言を発すべきでない」と痛感したと言い、次のように述べる。

結局此問題の解決の基礎要点は、一に我が日本帝国国民の覚悟如何にあると
私は申さなければならぬと思ふのであります。(拍手起る)

というのも、「太平洋における人類最後の大衝突」たる日米戦争は不可避であり、そのとき仮に一度は米国陸軍・海軍を屠ることがあっても、第二次、第三次の日米戦争、「歴史上未だ嘗て見ざる長期の戦争」が待っているからである。

太平洋の西側に於て、北から南に亘つて帯の様に此亜細亜の大陸を蓋として居る
ものは日本の島国であります。人口は少い。富は貧弱である。土地は小さい。
併し乍ら自然の形勝、此の亜細亜大陸と云ふものには日本人の許可を得なければ
一歩も入ることができない
(中略)
加ふるに最も悲しむべき事は、之に人種の争ひと云ふことが加はつて居る

講演の残り時間で、彼の議論が費やされるのは亜細亜大陸をめぐる攻防というよりも、むしろ、人種問題である。「十二億の有色人種」の虐げられている状況を打開すべき責任が、「日本人の双肩に掛つて居ると云ふ事を、我々は深く覚悟」しなければならないと言う。そのうえで、

私は端的に申しますが、此の日米の衝突に直面して、此の結果は寧ろ日本必敗を覚悟せなければならぬと思ふ。

必敗と覚悟してかかれば勝てるなどと安易なことを言うのではない。必ず負けると知って、なお、日本人は「この衝突の前に一歩も退くことの出来ない国民である」と彼は断言する。

講演は、この大国難に遭遇している日本は、国力を十倍くらいにするという工夫を講じなければならない、それを全日本人が心の底から考えなければならない、と結ぶ。口ではともかく、日米戦争は無限に遠い先のことと、上杉もほかの登壇者たちも聴衆も腹の中では、たかをくくっていたのにちがいない。

最終戦争まで

昭和4年4月、上杉慎吉は死去の前、門下生たちにささえられて床から起きなおると、皇居に向いてうやうやしく首をたれたという [nk19] 。彼は自らの予言が実現していく苦しい過程を見ずにすんだ。

満州事変の年、在郷の陸軍大佐、保科貞次は現実的可能性として、こう書いた。

そこで敵機もし我が都市を襲はばどうであろう?敵は機上から一発で東京駅でも、
丸ビルでも、微塵に砕くやうな爆弾を落すであらうし、又三千度以上の高熱で、
どんなものでも焼きつくし、しかも水をかけても消えないやうな焼夷弾を落したり、
あるひは窒息し、あるひは中毒にかゝつてゐる中に死んで終ふやうな、おそろしい
毒瓦斯弾をも容赦なく投下するであらう。

(保科貞次、「空襲!」、千倉書房、昭和6年)

日米最終戦争は、「子供も女も悉く殺される」「人種の殲滅戦」になる、と上杉は聴衆に語った。しかし、その戦争の本当の形が見えていたわけではない。石原莞爾の「世界最終戦争論」(昭和15年)の描く戦争の姿は、はるかに具体的に悲惨である。そこでは、銃後の老若男女は殺されるべき数として戦争に参加する。戦争に勝つというのは、相互殺戮にどこまでも耐えぬくことである。しかし、それが起きるのは1960年頃と踏んでいて、十分に準備していけば最終戦争を勝ちぬける可能性はあると石原は考えていた。満州支配はその準備の第一歩にすぎなかった [ishizu04]

しかし、満州事変(昭和6年)とそれに続く大陸での行動は、日米開戦の時期を早めただけだった。上杉の言った「富は貧弱」という日本国のまま、必敗の戦いに突き進むことになった。そのとき、石原は苦しまぎれに、大東亜戦争は最終戦争を準備するものであって、まだ最終戦争ではないことを「達観」するのが大東亜戦争に勝利する「要道」であると、わけの分からない言いわけをする 8

1

国防叢書 第1, 帝国国防協会出版部, 昭和7

2

萩原朔太郎、 「阿帯 : 萩原朔太郎随筆集」、河出書房、昭15、pp.134-145.

3

Hermann von Samson-Himmelstjerna (1826-1908)

4

データは日米年鑑. 第8号、(日米新聞社)、1912、及び、 US Census Bureau (https://www.census.gov/history/pdf/californiapops.pdf accessed on Dec. 2022). 明治40年に米国移民条令改正、同年末に日本政府による米国移民禁止。

5

ホーマー・リー 著, 池亨吉 (断水楼主人) 訳、 日米戦争、博文館、明44.10

6

太平洋問題漫画集 より。左図は米国の海底ケーブル網を示す。米中間の連絡はヤップ島を経由する線が最短かつ最も信頼性が高かった。戦後、日本がドイツの統治圏を継いでヤップ島をその中におさめたことが、米国の安全保障上の脅威になった。(なお、元図に香港経由線を書き足した。)

7

上杉は「日米衝突の必至と国民の覚悟」を同年7月3日に脱稿していて、この講演はそれを縮めたものである。7月1日に排日移民法(Immigration Act of 1924)が施行されたなかで、悲憤にたえずに書き始めたという。ほとんど悪夢のなかにあるかのような文章で、講演の方がまだ冷静である。

8

石原莞爾、国防政治論、聖紀書房、1942.

levine20

Letters from the Kaiser to the Czar copied from Government Archives in Petrograd unpublished before 1920., Isaac don Levine, New York, Frederick A. Stokes Company, 1920.

matenro

摩天楼 (勝井辰純)、 「時乃人永遠乃人」、博文館、大正9、

Buell22

Raymond Leslie Buell, The Washington Conference , New York, London, D. Appleton & Co., 1922. p.76.

Iikura06

Iikura Akira, The Yellow Peril and its influence on Japanese German relations pp.80- 97, in Japanese-German Relations, 1895-1945, Christian W Spang, Rolf-Harald Wippich eds., Routledge, 2006.

nk19

新村助喜、「郷土の先賢に続かん」「十、 上杉慎吉」、大政翼賛会石川県支部、昭和19.

kikutei

菊亭静(高瀬羽皐)、 書生肝粒誌 滑稽新話、今古堂、明20.8

hart152

Albert Hart, Pacific and Asiatic Doctrines Akin to the Monroe Doctrine, The American Journal of International Law.

ishizu04

石津朋之、総力戦、モダニズム、日米最終戦争 : 石原莞爾の戦争観と国家・軍事戦略思想、戦争史研究国際フォーラム報告書. 第2回、2004-03

myz05

宮崎繁樹、 大日本帝国憲法下の日本陸軍の法制面と問題点-日本陸軍の創設から消滅まで-、法律論叢, 77(6): 237-267、

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2024年4月18日