孫文とホーマー・リー: 二人の動線 (Paths of Sun Yat-sen and Homer Lea)¶
目次
孫逸仙(Sun Yat-sen)の軍師(Military Adviser General)¶
米国では孫逸仙(Sun Yat-sen)の軍師として名高い、ホーマー・リー(1876–1912)は、こどものころから軍事に名を残すことを夢みていた。が、幼時からの脊柱彎曲と、成人しても身長160cm程度、体重45kgという矮躯なうえに弱視、病弱で、軍人となるにはあまりにも身体的に恵まれなかった。しかし、雄弁術にたけ、また大胆な性格が人を惹きつけた。
1898年、西太后のクーデター(戊戌政変)が起こる。1899年、康有為は光緒帝を帝位にもどすための活動体、保皇會を設立した。リーはサンフランシスコで保皇會の活動に加わった。彼は冒険を求めてロサンゼルスでの高校時代から中華街を探索しており、そこで得た中国人の知己が保皇會とのなかだちをしてくれた。彼は1900年には中国に渡り、義和団の乱に活躍の場を求めた。しかし、大した役割も果たせないまま1901年春に帰国した 1 。帰国後は、在米中国人の私兵部隊を組織したりした。この私兵部隊の規模はリーによってかなり誇張されており、実際は大したことはなかったのかもしれない [roe14] 。
リーが孫文と知り合ったのは、1900年に香港でという説 [ken80] 、1909年ころに日本あるいは香港でという説 [ricca94] 、1910年に米国でという説 [kaplan10] などがあり、はっきりしない。二人ともに、それぞれの回顧のなかで、来歴の詳細をあえてぼかしているせいもある。孫文と交友の深かったCantileは、孫文による回顧をこう引用している。
I was speaking to a company of my fellows, when my eye fell on a young man
of slight physique. He was under five feet high; he was about my age; his
face was pale, and he looked delicate. Afterwards he came to me and said:
"I should like to throuw in my lot with you. I should like to help you.
I believe your propaganda will succeed."
His accent told me he was an American. He held out his hand. I took it
and thanked him, wondering who he was. I thought he was a missionary or
a student. ...
同志たちと話していたとき、貧弱な体躯の若い男に目がとまった。背丈は5フィート
もなく、私と同年輩で、青白く繊細な面立ちをしていた。しばらくして、彼の方から
近づいてきて、こう言った。
「あなたと一緒に働きたいと思っています。あなたに助力したいんです。あなた方の
プロパガンダを成功させましょう。」
彼のアクセントからアメリカ人だと分かった。彼は手を差し出した。その手をとり、
礼を言いながら、これは誰なんだろうといぶかった。伝道師か学生か・・・。
(James Cantile, "Sun Yat Sen and the awakening of China", New York :
Fleming H. Revell, 1912)
孫文は友人にあの男は誰かと聞いた。友人は、あれはホーマー・リー大佐 2 で軍事については現代最高の天才だ、と答えた。翌朝、孫文はリーを訪問した。
The next morning I called on Homer Lea, now General, and the famous author of the 'Valor of Ignorance.'
翌朝、私はホーマー・リーを訪ねた。彼は、いまや将軍であり、かの'Valor of Ignorance'の著者である。
孫文の回顧のこの部分は、一読、時系列の混乱を招く。ここで"now"と言うのは、リーを訪問した時ではなくて、回顧をしるした時点のことである。孫がリーを訪ねたのは、'Valor of Ignorance'出版よりかなり前のことである。
下表に孫文とホーマー・リーの動線を比較した。これで見ると、「恵州挙兵」前後に日本あるいは上海で二人が顔を合わせることは十分可能だったが、それぞれの動線は微妙にすれ違っていた可能性も否定できない。

孫逸仙とホーマー・リーの動線(当時の米紙記事等による)¶
1899年、義和団の乱が起きた。孫文は台湾総督府から武器供与の約束をとりつけて、恵州挙兵の指令を出す(1900年10月)。宮崎滔天によると、一時、孫も長崎から上海に渡るが、中国官憲の捜索がきびしくて、早々に日本に戻らざるをえなくなる 3。結局、挙兵は失敗に終わる。
リーの高校時代からの友人、Marshall Stimsonの回想記では、リーは1900年に孫文とともに中国から日本に渡ったと言う [stimson42] 。ただし、Stimsonの回想はだいぶ時間がたってのことで、当時の動向について混乱も見受けられ、全体的にどこまで信用を置いてよいか。
いずれにしても、リーは1901年に数カ月間 4 日本に滞在して、日本と中国の関係などについて知見を広げている。しかし、日本でのホーマー・リーについての記録は、あまり目にしない。
大隈重信は1901年に一度、リーと会ったといわれる [kaplan10] 。が、"The Valor of Ignorance" (「無知の武勇」)の出たあと、大隈はリーのことを「あまり人格のある人とは思はれない」と言い、本の内容も「浅薄」と評している [okuma_t2] 。また、「犬養木堂伝」 5 によれば、犬養毅は明治44年(1911)12月に中国革命軍援助のため頭山満らと渡支し、翌1月に上海でLeaに会っている。リーの容姿がある日本の政治家にそっくりだと犬養が言った、ということしか記されていない。リーが中国人に強い印象を与えたのとは対照的に、人物としては日本人にはあまり受けなかったらしい。
孫文のホーマー・リーに対する信頼は時とともにあつかった。1911年10月、孫が滞米中に辛亥革命が起こった。リーはその6月に彼の速記者をしていたEthel Towerと結婚し 6 、新婚旅行をかねて、ドイツのヴィースバーデンに眼科の専門医のもとで療養していた。孫は米国から、リーに各国財界への仲介を依頼する電信を打った。二人はロンドンで落ち合い、支援取りつけのために英国、欧州をめぐった。が、当時各国政府は袁世凱に期待をかけており、うまくいかなかった。その頃の万策つきた姿が報じられている。
デイリー・メイル紙記者は、ドクター・スンが彼の秘書たちとホーマー・リー将軍を
ともなって駅から発つのに居合わせたが、ドクターは一言も発してくれなかった。
彼は疲労困憊の様子だった。褐色の顔の、頬はくぼみ、まゆをくもらせていた。その
容姿はとても英雄らしくない。背は低く、痩せており、毛皮のコートにほとんど埋も
れて見えた。短い、ふぞろいの口ひげが、固くとじた小さな口を隠していた。彼は教
養のある英語を話した。
New-York Tribune. November 21, 1911
12月25日、孫とリーは上海に着いた。
1912年1月、中華民国臨時政府が成立し、孫文が臨時大総統に選出された。同2月、皇帝退位を条件に孫分は袁世凱に大総統職を譲ることを宣言した。その2月、リーは健康を著しく損ねて、一時は危篤状態に落ちた。急遽米国に運ばれ、夏頃には車いすで海岸に出る姿が見られたりしたものの、同年11月1日に亡くなった。
リーの遺灰は未亡人が保管した。1969年になって遺灰は台湾に運ばれ、蒋介石の立会のもと台北の墓地に仮埋葬された。「仮埋葬」というのは、いずれ中国統一を果たしたら、南京にある孫文の墓の傍に埋葬することを中華民国政府が約束したためである [kaplan10] 。

"The Valor of Ignorance"(無知の武勇)¶
ホーマー・リーが"The Valor of Ignorance"の構想を得たのは、ポーツマス講和会議のころだったという。その後、資料を補強して、1909年9〜11月にHarper's Weeklyに連載された。後に一冊にまとめたものには、前参謀総長Adna Chaffeeが序文を寄せた。本は大変な評判となり、米国軍部、ドイツ皇帝などが多数購入、配布したと言われる。ハワイ、太平洋岸の地方紙が大きくとりあげて、日本の脅威、防衛増強の必要性を論じた。
中国革命へのリーの具体的な貢献ははっきりしないなかで、"The Valor of Ignorance"を出さなければ、今日、リーが論じられることもまずなかったのかもしれない。この著作はそれほど大きな影響力をもった。米国陸海軍合同の対日机上演習(War Plan Orange)にも、この本があるていど影響を及ぼしたという説もある。また、その軍国主義的主張の社会的反響は、晩年のWilliam Jamesに論文"The Moral Equivalent of War"を書かせるきっかけにもなった。
"The Valor of Ignorance"の和訳は二つ作られた。
望月小太郎訳「日米必戦論」は明治44年(1911)2月に出て、陸軍大臣官房から軍内の各文庫に寄贈・配布された。「翻訳権」を持たないので「部外秘」とすると記されている。
池亨吉訳「日米戦争」は博文館から同10月に発刊された。こちらの奥付には定価が記されている。池亨吉によれば、リーは中国語、日本語訳の権利を孫逸仙に無償で譲り、池は孫逸仙から翻訳権を得たのだという。しかし、この時点では、池はリーと孫との密接な関係について把握していないように見える。
「日米必戦論」の方には原著にある長い附録(日米関係基礎データ)も訳出されているが、「日米戦争」には附録部分はなくて、その一部が本文に組み込まれている。
2024年4月18日
- 1
本当は、この時点ではリーは中国本土には入ることができず、せいぜい香港までしか行けなかったという説もある [。
- 2
リーに大佐('Colonel')の肩書がついている例は、他に見ない。孫の知人の言い間違いか、孫の記憶違いか。1901年春に帰国して以来、彼は保皇會に任命された'Lieutenant General'を名乗っている。
- 3
宮崎滔天、三十三年の夢、国光書房、明35.8、p.242.
- 4
Kaplanによれば三ヶ月間ほど [kaplan10] 。
- 5
下巻 (木堂先生伝記刊行会 編、東洋経済新報社、昭和14)
- 6
"GEN. HOMER LEA WEDS - Leader in Boxer Rebellion Takes Stenographer for His Bride", Evening star. August 14, 1911, Page 2
- 7
Roger R. Thompson, Review: Who Was Homer Lea (1876—1912), and Why Should We Care? Myth and History in the "American Century", China Review International, Vol. 19, No. 1 (2012), pp. 9-23
- roe14
Bertrand M. Roehner, “RELATIONS BETWEEN US FORCES AND THE POPULATION OF CHINA”, Institute for Theoretical and High Energy Physics, University of Paris 6, 2014.
- ken80
William Kennedy V, "The Wisdom of Homer Lea", U.S. Army War College, 15 Jan 1980.
- ricca94
Richard F. Riccardelli, Edgar A. Ott, "A Forgotten American Military Strategist:The Vision and Enigma of Homer Lea", U.S. Army War College, 19 May 1994.
- kaplan10(1,2,3,4)
Lawrence M. Kaplan, Homer Lea: American Soldier of Fortune, University Press of Kentucky, 2010
- stimson42
Marshall Stimson, "A Los Angeles Jeremiah Homer Lea: Military Genius and Prophet", The Quarterly: Historical Society of Southern California, Vol. 24, No. 1, MARCH 1942, pp. 5-13.
- okuma_t2
大隈重信、経世論 続編、富山房、大正2