第103師団(駿兵団)の陣地設定

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第103師団守備地の地形

アパリ防衛の基本方針がいっこう定まらず、陣地位置設定が二転三転したことは師団砲兵隊にいた山本七平が詳しく書いている [sitih51] 。また、有薗大隊にいた梅崎光生は、19年夏以降、米軍の実力が明らかになるにつれて、海岸陣地、数キロ奥の丘陵陣地、さらに山奥の洞窟陣地と方針が変転したことを記している [mits62]

しかし、昭和19年9月末時点で第14方面軍が把握していた同方面の陣地配置 [14kankei] は図のようになっている。

サイパンでの経験から、7月10日に陸軍司令部(第14軍)は作戦を転換し、水際撃滅法を避け縦深戦法を採ることとしたが、おおむねその方針にしたがって陣地構築が進められていた。

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昭和19年9月末時点カガヤン谷北部の陣地設定状況。

一方、ルソン戦末期の 1945年6月19日時点 、米軍はアパリへの空挺団作戦にあたって、偵察機や米比軍ゲリラの情報をもとに第103師団の陣地配置を次のように把握していた。

カガヤン谷には1945年6月19日時点で16,800人の兵力が残存すると評価される。
そのうち4,000を超えない兵員が谷の北端のDUGO-PATTAO-BINAG-LALLO四角の範囲
にいると信じられる。1945年5月上旬時点では第103師団の第80旅団諸隊が
カガヤン谷北部の防衛を任されている。現在、第103師団主力は命により谷の南部
方面防衛強化のために10梯団をなして南進している。この南進は5月半ばに始まり
今日まで継続している。現時点での谷北端部の戦力はこの南進全般の進展度合に
依存する。
(中略)
カガヤン谷北部の敵の防衛態勢は海からの揚陸、南下を阻止するように設計され
ている。三つの防御線が築かれている。第一線はDUGO-PATTAO-BINAG-LALLO四角内
の緻密な洞窟、掩蓋銃座、塹壕のネットワークである。第二の防御線はDummun
(Dummon)川北、 GATTARAN東のあたりにある。これらは北部の線ほど緻密ではなく、
個別の強化点の連なりである。第三線はParet(Pared)川の南岸にそって延びるも
ので、準備が整っている。上記三つの防御線では、DUGO-PATTAO陣地のみ、今も
兵力が配置されていると報告されている。
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アパリーラロ付近の地形と陣地構築例

また、第179大隊 矢野中隊の日誌 から、19年10月以降、5月の転進まで営々とDUGO-PATTAO-BINAG-LALLO四角内の陣地構築が続けられていたことが分かる。

以上をまとめると、19年9月末までには水際防衛線はほぼ完成しており、加えてAlcalaからPared河沿いに洞窟陣地を作って、縦深に防御する構想だった。しかし、以降、水際防衛の構想は捨てられ、かわりに、DUGO-PATTAO-BINAG-LALLO四角に丘陵陣地のネットワークを張り巡らすという構想が中心となったように見える。

つまり、陣地配置はおおむね次のように変わっていった。

19年前半: 「水際撃滅」が全軍の作戦趣旨:水際陣地構築
19年9月末ころまで: 水際陣地 + AlcalaからPared河沿い洞窟陣地
                     + (Lal-lo付近5号道沿い丘陵陣地)
19年10月以降: Dugo-Pattao南の丘陵陣地 + AlcalaからPared河沿い洞窟陣地
20年2月以降 : Dugo-Pattao-Binag-Lallo四角の丘陵陣地ネットワーク
              ( + AlcalaからPared河沿い洞窟陣地)
20年5月半ば〜6月半ば: Pared河沿い洞窟陣地放棄。
             丘陵陣地を湯口支隊が受け継ぐ。左岸からの米比軍ゲリラと戦闘。

この中で、第103師団の乏しい輸送力で、数少ない火砲をどのように配置するかは最後まで固まらなかったかもしれない。師団といっても、旅団のひとつ(第79旅団)は西海岸にはりついていて、実質は1個旅団(第80旅団)プラス・アルファに過ぎない実力で、どう考えても答えがなかったにちがいない。しかし、問題の本質は、米軍が何を目的として、どこに、どんな形でアパリ地区を攻めてくるのかという前提が決まらないことだった。言いかえれば、師団をよそおった守備隊ともいうべき第103師団がそこにいるべき理由がわからなかった。

答えが出ないまま第103師団主力は5月に突然、 南進 を命じられた。残置された寄せ集めの湯口支隊は、左岸からの米比軍ゲリラの攻勢に耐えられず、6月下旬には サンホセ盆地 に「転進」した。

6月23日、アパリ南、Camalaniuganに降りた米空挺部隊はほとんど何の抵抗も受けず、台湾人など若干の捕虜を得ただけだった。


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2024年4月18日


sitih51

山本七平、「一下級将校の見た帝国陸軍」、朝日新聞社、昭和51年12月

mits62

梅崎光生、「ルソン日記」、沖積舎、昭和62年3月

14kankei

呂宋島陣地構築進捗概況要図 九月末現在、昭和十九年 第十四方面軍関係綴、国立公文書館アジア歴史資料センター