739: 'シベリアから来たペルシャ人'事件 (伊藤博文とウィリアム・タフト)

依頼人

何国人なのかは分からない。中東あたりか、たぶん二十代の女性で、留学生と紹介された。

依頼内容

仲間うちで話していると、自分はいつも少数意見になる。何かを主張するわけでもないのだが、他の人たちと意見が一致するのは自分が最後になる。どうせ同意するのだから、なにも言わない方が良いのにと、日本人の友人から言われもした。しかし、それもすっきりしない、という。

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(左)ミールザー・アリ・アスガル・ハーン、(右)ウィリアム・タフト

調査報告

そういえば、その昔、戦争にはいつも反対し、いつも最後に賛成することになった大政治家がいた。

アリ・アスガルとウィリアム・タフトと同船のこと

1904年1月7日夕、香港の英軍守備隊のための舞踏会が催された。しかし、その晩、参会者たちの心ははれなかった。部隊に動員準備の指令が届いたのだった [story04] 。極東で起きようとしている巨大な事件に彼ら一人ひとりの人生がどのように巻き込まれていくのか、不安な心を抱えて寝に就いた。同月17日、スーダンのアトバラから、米国人起業家のリー・ハントが米共和党の有力者に宛てて、手紙を書いた [hunt04] 。ハントは山師的起業家で、これ以前に平壌北方の金鉱開発で財をなし、このときはスーダンで綿花事業を始めようとしていた。

この手紙が着く頃には、あるいは、そちらの郵便局に届く以前に、極東での戦端が開か
れていることでしょう。もはや平和は望めません。が、望むらくは、ロシアに同情す
る意見によって大統領が状況を見誤ることのないよう、ご尽力ください。私は別に日本
に共感するものではありませんが、日本が陸海においてロシアを叩きのめすことを確信
しています。このことは昨年大統領にお会いしたときにも申し上げましたし、大統領も
私を信じてくださったようでした。ロシアは旧式な動力機関であって、無骨で重くて動
かすのに苦労します。一方、日本は近代的でコンパクトかつ先端的な機械なのです。商
業上の日本の徳義についてはいろいろ言われるかもしれませんが、政府の支出において
は正直です。しかるに、ロシアは絶望的に不正直なのです。船舶建造、物資や装備の調
達における不正は平時ならごまかすことができますが、戦時には弱点が露呈します。
(以下略)

その少し前、フィリピン総督ウィリアム・タフトがルーズベルトによって陸軍長官に任命された。フィリピンからワシントンに戻る途中、タフト夫妻は日本に寄った。それ以前の1900年、フィリピンに赴任する途次にもタフトは日本に寄り、天皇への謁見を申請した。そのときの謁見は「日本は初めてですか」「初めてです」といった数語で終わった。今回はまるで待遇がちがった。船が長崎に着くやいなや、特別列車が待ち受けていて、そのままいっきに東京に運ばれた [mrstaft] 。記録ははっきりしないが、新陸軍長官夫妻のために、1月5日に外相主宰の晩餐会、同6日に 天皇・皇后との午餐会 がもたれた。宮中午餐会に通訳を努めた長崎省吾は、後日以下のように記している。

日露開戦一ヶ月前現米国大統領タフト氏ヒリッピン島総督より米国陸軍長官に栄転し帰
国の際本邦に寄港せり当時は朝野一般国家の大患として憂慮し居る際なれは米国の同情
を得ると否とは時局の上に大関係を有するを以て同氏 陛下に謁見の際長時間御対話中
専ら此に注意を傾倒せり

(長崎省吾)

午餐会の概要はタフトから米国に公電された 1

タフトはフィリピン総督に任命されるまでは最高裁判事の座をねらっており、外交にも軍事にもほとんど音痴だった 2 。今回、ルーズベルトがタフトを名目上の陸軍長官にしてフィリピンから本国にもどしたのは、その秋の大統領選対策のためである。日露の問題はおそらくそれまでタフトの関心外のことだった 3

タフトの天皇謁見を仕込んだのは米国公使グリスコムである 4 。日本での日程は日本政府の意向で決められたが、天皇の発言は予測され、タフトの受け答えはあるていどまでは事前にすりあわせがされていたであろう。

ちょうど同じとき、あるペルシャ(イラン)人の一行が東京にいた。ガージャール朝でつい最近まで首相を務めていた ミールザー・アリ・アスガル・ハーン の一行は、hajj(メッカ巡礼)の名目で国王から長期の休暇をもらい、その実、カスピ海をバクーに渡り、モスクワから シベリア鉄道、東清鉄道 に乗って旅順から日本、さらに米国、欧州の調査巡遊の途次にあった。9月22日にテヘランを発ち、日本には12月初めにはいった。アリ・アスガルもタフト長官歓迎の外相主催晩餐会に招かれた。彼らイラン人は、日本政府がタフト陸軍長官との会談成果次第で、ロシアとの戦争の最終決断を下すものと理解した [hashem88] 。彼らがこのように推測したのは、晩餐会後の米公使との雑談にもとづく。

1月6日、ロシアから満州、朝鮮をめぐる日本側要求に対する三度目の回答が届いた。前二回の回答から意味のある進展はなかった。

1月7日、タフト夫妻の離日にあたって、駅まで小村外相、寺内陸相が見送りに来た。横浜では伊藤博文が待ち受けていて、米領事館でタフトと長時間の会談を持った。

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汽船コリア号 (https://hdl.loc.gov/loc.pnp/ppmsca.58680)

ともに有名な平和主義者で軍事音痴どうしのタフト - 伊藤会談の内容は明かされなかったが、英デイリー・メール特派員は、タフトは伊藤に日露開戦となった場合には米国は友好的な中立を保つと言ったにちがいないと発信した。

タフト夫妻とアリ・アスガル・ハーン一行とをのせた汽船コリア号の離岸のとき、万歳三唱の声があがり、タフト夫人を大いに感激させた。米紙はタフト夫妻が日本でグラント将軍以来の歓待を受けたと報じた [nwdt04]

米国1月7日付 The Evening Statesman 記事
ワシントン: 国務省は欧州の大使館の一つから、日本が韓国に35,000人の兵を上陸させ
る準備を終えたとの情報を得た。国務省筋は極東情勢は「極めて深刻」としている。
彼らは上記情報の信頼性は高いと言っている。
ブレスト: ロシアの巡洋艦Almezが明日東洋に向けて出港する。
東京: 日本政府に動きはない。ロシアの回答につき検討中である。
パリ: コンスタンチノープルからの通信によると、ロシアは76隻の黒海艦隊の
ダーダネルス海峡通過についてトルコ政府と交渉中である。

この日、米国の主要保険会社は船舶戦争保険料を引き上げることを顧客に通知した。

このころ、米国務省は日露交渉をつぶさに追うと同時に、満州をめぐる米国の商業的地位を確かなものにしようとしていた。米中通商条約 5 は前年10月8日、ロシアの満州からの撤退期限と同じ日に署名された。中国側の批准はロシアの干渉で遅れていたが、ようやく1月10日になった。タフトへの日本政府の働きかけは、日露に関して米国が外交的な動きを起こすのにちょうど良い機会をつくった。

国務省筋は非公式に、日露交渉は実質的に破綻してしまい、開戦はほぼ不可避なこと、米国は日本に友好的な中立国としてふるまうとの情報を積極的に流しはじめた。日米の合意した「友好的中立」の意味は、単に参戦しないというだけでなく、しばらくは和平仲介・調停もあえて行わないということである。時間とともに、米国はこの意味を列強に対して明らかにしていき、同じようにふるまうことを求めていった。

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開戦不可避の噂は電信にのって、あっという間に地の果てまで届いて、大きな渦を作った。日本政府は目をつぶってその渦の真ん中に飛び込む以外の選択肢をもたないのかもしれなかった。しかし、それでも、欧英の評論家、ジャーナリストでロシア極東問題に詳しい者ほど、戦争は回避可能と考えていた。勝敗の帰趨にかかわりなく、この時点での戦争は両国どちらの利益にもならないことは明らかであり、日本が本当は何を求めているのか理解しかねていたからである。仮に勝利できたとしても、日本が得られるていどのものは、外交的努力を続けることによっても手にはいるはずと思われた。

高き文明は常に低き文明を圧し、而して或は其国を衰へしめ、或は其国を亡びしめる。
されば、国家に取ては、此の高度の文明の外圧力に優りて怖るべき者はない。
大政維新は、実に、此の恐怖に迫られて決行されたものに外ならぬ。
王政復古も是れが為である。廃藩置県も是れが為である。

(侯爵大隈重信 述 「大勢を達観せよ」、芳文堂, 1922)

凡そ物の起るのは決して偶然に起るのではない。今までの開国の歴史上日本の愛国者が
初めて国防と云ふ論を起した所の源は露西亜であった。百年前には露西亜だったのであ
る。それから米国或は英国、仏蘭西、其他続いて外国が日本と条約を結ぶ時に当つては、
総ての欧米諸国が日本に寇を為しはしないかと云ふ疑を起したのである。
(中略)
其の誤解は次第次第に消滅して來るに拘らず、露西亜は其後更に(以下、略)

(大隈伯演説集 明治三十七年五月「日露戦争と世界の平和」)

そして、当時気鋭の英国人ジャーナリスト、アルフレッド・ステッド は論説の冒頭に次のように記した。ステッドはJapanophileの小ステッドと小馬鹿にされることの多い記者・編集者だが、日本人政治家・貴顕との短いが広い交友のなかで、こんな言葉を拾ってくる鋭敏さをもっていた 6

“Korea,” said an eminent Japanese statesman,
“is like an arrow with the point aimed at our hearts,"

「朝鮮は」と、ある著名な日本の政治家が言った。
「われわれの心臓をねらう矢のようなものである」

(Alfred Stead, "Question of Korea", FORTNIGHTLY REVIEW 1903年11月号)


Emotional

A purely disembodied human emotion is a nonentity.

身体からまったく切り離された感情には実体がない。

(William James, The Principles of Psychology, Ch. XXV. The Emotions. )

"emotion"という語がフランス語から英語に取り入れられたのは17世紀であり、広く持ちいられるようになったのは漸く18世紀になってからだという [Dixon12] 。今日にいたるまで、"emotion"という語の心理学的定義は定まっていないが、それが当然と思える。

"emotion"は日本語では「情緒」、あるいは、ある種の強い「感情」に相当する。心理学では「情動」は英語"affect"に対応させることが多いようだが、"emotion"と"affect"の違いとは何かも良く分からないというのが本当だろう。それぞれの専門分野内で、約束事として単語を使い分けているだけのことである。

ジェームズの定義では、「何ものかを識知することによって直接的に身体的な反応が起こされる。その身体的変化を感じること(feeling)が"emotion"である」 7 。このとき、"emotion"を起こす「対象」が何か、また、その「対象」による「身体的反応」とは身体のどの部位のどんな変化のことなのかは問わない。それらを問い始めると、出口のない迷路のような議論を延々と続けなければならなくなる。

Feelings, nothing more than feelings
Trying to forget my feelings of love
Teardrops rolling down on my face
Trying to forget my feelings of love

Morris Albert

そして、個々人の情緒、感情はその生まれつき、育ってきた環境、経験によって実に多様である。それでは、その多様性を何とか一般化して、「悲しみ」、「恐れ」、「怒り」、「愛」などと言っているのにすぎないのだろうか。しかし、なぜ、歌のなかの"my feelings of love"という一節が聴衆ひとりひとりの胸に落ちるのだろうか。同じように落ちているのかどうかは、お互いには知りようがないのだが、メロディーが聴く者にひとつの感情を共有していると信じさせるのは、なぜなのだろうか。



日露開戦の伊藤博文

かつて、ある思想家が、人間が本当に自分のものとして持つことができるのは意見だけだと言った。ところが、日常われわれの意見の99%はおそらく誰か他人の意見を繰り返しているのにすぎない。しかも、その意見が立脚しているはずの事実は、しばしば、その出処をたどろうとすると、どこにも誰にも行き着かないまま消えてしまったりする。

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しかし、それでも自分の意見を自分のものとして感じるのは、言葉は同じでもそこにこめられた感情、そのような感情を生み出した身体感覚の連合は、自分だけのものと信じるからである。二つとして同じ感情がないように、二つとして同じ意見はない。とすると、意見をかわして合意にいたるというのはどういうことだろうか。

AとBとCとは意見が一致した、というのは、一時の錯覚でなければ各人のあいだで一定の妥協できたというのにすぎない。しかし、ひとつの集団が同じ意見に行きつくというのは、それとは全くちがう現象である。

Where indecision is great, as before a dangerous leap, consciousness is
agonizingly intense.  Feeling, from this point of view, may be likened to
a cross-section of the chain of nervous discharge, ascertaining the links
already laid down, and groping among the fresh ends presented to it for
the one which seems best to fit the case.

危険な跳躍の前のように、決断がむずかしいほど、意識は苦しいほど強まる。
このような観点から、そのときどきの感情(feelings)は、それまでに形成された
連合をてがかりに、目の前の選択肢のなかから現在の事態に最も適いそうなものを
模索する、神経放電の連鎖の各断面のようなものである。

(William James, The Principles of Psychology)

ある組織、集団が危険な跳躍をせまられたとき、判断に与るべき地位にある成員それぞれが互いの神経放電の中から、適切な答えを探し求める。各人は過去に形成された「連合」にしばられており、しかも、判断の手がかりとなるのはしょせん断片的な情報でしかない。そんな時ほど、関係者の意見は互いに異なりながらも、結論は奇妙に一点に収斂していく。個を超えた大きな「感情」のうずに全員が呑みこまれる。

1904年1月、開戦は不可避ではなかった。しかし、日本がロシアと戦わなければならないとしたら、勝てる機会はこのときしかなかった。交渉を重ねてロシアに時間稼ぎをされては、その機会は永遠に遠ざかってしまう。1904年末まで待っては遅すぎる。両国政府それぞれが戦争だけは回避したいという思いとは関係なく、この非常な事実は動かしようがないように感じられた。このとき日本の外相、陸相、首相、元老がみなそう感じたのである。集団がみな同じ意見に収斂していくとき、ひとり別の意見をもつことは可能であるが、その意見は歴史の参考にはなっても、集団の動きを変えることはできない。

伊藤博文公年譜 (昭和17、春畝公追頌会編纂)

明治三十七年(甲辰)  公六十四歳
一月二日  外務大臣小村壽太郎大磯ニ来訪、日露関係ノ急迫ヲ告グ
一月十二日 御前会議ニ参列、對露最後修正案ヲ議ス
一月三十日 總理大臣官邸ニ於ケル元老大臣会議ニ臨ミ、我國力ノ不足ニ顧ミ小康ヲ
得ルニ安ンズルカ、將タ國家ノ運命ヲ賭シテ彼レノ政略ヲ阻礙スルノ手段ニ出ヅルカ、
一刀兩斷ノ決ヲ執ルベキノ秋ナリトノ意見ヲ唱フ。
二月三日  山縣、松方、大山、井上各元老及ビ桂首相ヲ始メ山本海軍、曾禰大蔵、
寺内陸軍、小村外務各大臣ト共ニ總理大臣官邸に會シ、我國権國利ヲ維持スル為メ
敢然干戈ニ訴フルモ止ムナシトシ、翌日聖裁ヲ仰グコトニ決ス。

そして、翌2月4日、御前会議で伊藤は、「此ノ (ママ) 荏苒(ジンゼン) 小康ヲ求ムルトキハ、我國ノ存立亦危殆ニ陥ルノ (オソ) レアリ、若シ忠勇ナル 闔國(コウコク) ノ臣子奮然起ッテ戰ハヾ必ズ國威ヲ維持スルヲ得ン、今ヤ決然 宸断(シンダン) ヲ下シ給フベキ時機」との旨を奏上したと、年譜に記されている 8

その御前会議の夜、伊藤は金子堅太郎を官舎に呼んだ。金子が書斎に通されると、伊藤は安楽椅子に下唇をかんだまま俯いて、一言も発しない。しばらくすると、女中が白粥に料理二三品を運んできた。伊藤は白粥に塩をかけて、やっと一椀を食べ終え、そして、はじめて金子に話しかけた。すなわち、金子にアメリカに行って、アメリカの世論がロシア支援に傾かないよう、日本に同情するよう尽力しろとの命を伝えた。

行先の分からない船にいつまでも乗ってはいられないと、ほかの連中より一瞬おくれて自分も岸に向かって目をつぶって跳んだ。下唇をかんだまま俯いて見ると、はるか下に黒い海のうねりが見えた。しかし、その黒い海面は、ついさっき見たときから少しも近づいては来ない。回転の早い頭は、結局はまた別の、もっと行先の分からない船の舷側から、自分はいま深い海をのぞいているのだなと思う。まずはこの新しい船で、それぞれに自分の仕事をしてもらわなければならない。

此戦争は死生存亡に関係する否寧ろ国家の存亡に関係する事柄であると云ふ事は万々
知りつゝも止める方は宜しいと云ふ一言を 天皇に向つて建言することも出来す、又
当局者に向つても云ふ事も出来なかった、併し成るべく国家の恥辱を受けざる範囲に
於て戦争を避けたいといふ希望は最後に至るまで持って居つたと云ふことは即ち先日
も総理大臣の官舎に於て諸君に御話申したが、遂に其事成功しなかった。而して希望
せさる不幸なる戦争を見るの結果に至つた、
(中略)
固より戦争といふものは諸君に申す迄もなく、国と国と相対して争ふの結果、まだ
世界文明の進化は此最上に位する處の所謂神が人間社会を直接に支配することは
現はれて来ぬから、貴様は非なり貴様は是なりと云ふ裁判はないから、天に訴ふる外
はないと云つて初めて干戈に訴へて勝敗を決せんとして居るのが今日の事態である、・・・

     (伊藤博文演説、東京銀行集会所に於て、明治37年(1904)5月20日)

その5月はじめ、旅順攻囲戦にむけて乃木中将を司令官とする第三軍が編成された。この演説の日、第三軍司令部はまだ新橋を発っていない。



2024年4月18日


1

この公電についてはタフトの伝記には触れられているが、セオドア・ルーズベルト・センターのアーカイブでは見つけられなかった。

2

ダグラス・マッカーサーの父のアーサー・マッカーサー・ジュニアがタフトより先にフィリピン軍事総監として着任しており、タフトとのあいだでの激しい主導権争いが記録されている。タフトのフィリピン総督着任は1900年6月、マッカーサー将軍は翌年解任された。

3

1901年マッキンリー大統領が暗殺されたため、副大統領のセオドア・ルーズベルトが大統領になった。したがって、1904年は彼として重要な大統領選であった。タフトを陸軍長官に任命したが、タフトが軍事音痴なことは承知していて、軍事方面は必要ならルーズベルト自身で仕切るつもりだった。

4

タフトの陸軍長官就任は事実上1903年春に決まっていた。1903年11月23日、天皇謁見についてグリスコム公使がタフトに打診している。

5

Treaty between the United States and China for the extension of the commercial relations between them. Proclaimed, January 13, 1904.

6

大ジャーナリストW.T.Steadの息子なので、小ステッドとも呼ばれた。彼の興味深い人生については、アルフレッド・ステッド に記す。

7

"My theory, on the contrary, is that the bodily changes follow directly the perception of the exciting fact, and that our feeling of the same changes as they occur IS the emotion." (William James)

8

一月三十日、午前九時に総理官邸で、桂、山本、小村、山縣の四名で「小康ヲ得 ルニ安ンズル乎國家ノ運命ヲ懸テ彼ノ政畧ヲ阻礙スルノ手段ニ出ル乎是日今一刀 兩斷ノ決ヲ為サザルヲ得サルノ境遇也」という結論を持つ覚書を作っている。同日の伊藤の発言として記録されているのは、これを承けたものか。

hashem88

Hashem Rajabzadeh, "Russo-Japanese war as told by iranians", Japan Association for Middle East Studies, No. 3-2, 1988, pp. 144-166.

hunt04

Letter from Leigh S.J. Hunt to Nicholas M. Butler, 1904-01-17, Library of Congress Manuscript Division, , Theodore Roosevelt Digital Library, Dickinson State University.

story04

Douglas Story, The Campaign with Kuropatkin, Nov. 1904.

mrstaft

Helen Herron Taft, Recollection of Full Years, 1914.

nwdt04

New-York Daily Tribune, Jan. 8, 1904.

Dixon12

Thomas Dixon, “Emotion”: The History of a Keyword in Crisis, Emotion Review Vol. 4, No. 4 (October 2012) 338­–344, DOI: 10.1177/1754073912445814