733: '三歩は歩け'事件¶
依頼人¶
某大銀行総合職。二十代後半、男性。天気が良かったので港を見下ろす公園で閑談。
依頼内容¶
子どもの頃から、お前は
調査報告¶
刻印¶

人間があやつるシンボルの体系に「数」が現れたのは比較的新しい。「数」はすでにあったシンボル操作の体系に寄生し、はびこり、溢れだしたのである。
はるか昔、人間が持っていたのは、多くの動物と同じ数感覚("Number sense")でしかなかった。数感覚とは何か?次の挿話が良く知られている。
カラスが塔に巣を作った。撃ち殺そうと猟師が近づくと、カラスは逃げる。そして、
猟師が塔から去るのを待ってから、巣に戻る。そこで、人間たちは策略をたてた。
二人の猟師が塔に入り、一人が残り、一人が去る。しかし、カラスはだまされなかった。
塔に残ったもうひとりが去るまで待ったのである。猟師の数を三人、四人と増やしていった。
が、うまくいかなかった。最後に、五人を送った。それまでと同じく、全員が塔に
入ったあと、一人だけが残り、ほかの四人は塔から立ち去った。
ここでカラスは数がわからなくなった。5と4との区別がつかず、カラスは巣に戻り、
命をおとした。
ここで、引用例 [1] によって、カラスの数感覚の限界は5だったり、6だったりする。しかし、7まではいかないようである。いずれにしても、5と4の区別がつかないカラスでも、5と3との区別はつく可能性が高い。人間も含めて、動物の数感覚はデジタルではなくて、ごくおおざっぱにアナログ的なのである [2] 。
「数」の体系は突然現れたのではない。数感覚のなかには、すでに基数、序数の概念の萌芽があった。人間社会の発達とともに、本来の数感覚で扱えるよりも大きな数を正確に扱う必要性が出てきて、基数が拡張され、序数が発展した。人間は「数える」という行為を覚えたのである。これは、人の社会がある発達段階に達したところでは、いたるところで並行して起きた。
木片や石板あるいは骨にきざんだ刻印から、数を表す記号がうまれた。新たに記号として作りなおされた数のひとつひとつは、すぐに事物をはなれて、それぞれ勝手に動きはじめた。そのふるまいを明らかにすることができれば、天地を動かし人の希望と恐怖とを支配している秘密にたどりつけるのかもしれなかった。進んだ文明において、すぐれた頭脳の仕事は、この謎を解くことにあった。
あるとき、インドで何かの偶然のように「0」が発明され、位取り記数法が世界に普及した。商業のさかえるところ、算術が人々の日常に入ってきた。日々あつかわなければならない数は膨張し、人の迷いは深まった。
「数」の操作が人間の脳の限界にぶつかるようになるのは、あっという間のことだった。しばらくは、「数」の操作はほとんど言葉で記述されていた。が、いつか言葉の冗長さ曖昧さをのがれて、「数」の操作を記号の体系、「数式」で記述するようになった。数式のなかで、「数」は人間の感覚から完全に自由になった。
それから数百年の時がすぎた。やがて「数」はあらゆるものに浸透し、あたかも宇宙をくまなく浸す媒質のようになった。そして、「数」にとって人間はもう必要ではなくなった。しかし、一回しか生きられない生身の人間にとっての「数」はどうだろうか。
貧しくできている¶
1984年、Psychological Review誌は発刊100年を迎え、同誌論文のうち過去もっとも影響のあった幾篇かをとりあげて記念号とした [3] 。その一つに、ジョージ・ミラーの論文、" 魔法数7プラスマイナス2: 人間の情報処理能力の限界" [Miller56] がある。
ミラーは、人間の情報処理能力を チャンネル容量 と 短期記憶容量 との二つの視点から論じた。
例えば、周波数の異なる音を複数聞かされた時、いくつまで聞き分けられるか、同じ周波数だが大きさの異なる音ではどうか、塩分濃度のちがう水は何種類まで味わい分けられるか、等々の試験を行う。与えられた情報の量があるしきい値を超えると、人間は情報のそれぞれを正確に識別できなくなる。これが チャンネル容量 である。
一方、 短期記憶容量 とは、複数の単語をいちどきに示されたとき、いくつまでならそのすべてを正しく思い出せるか、といった類のものである。
ミラーが集めた実験結果では、いずれの場合も、7±2のあたりにしきい値がある。
ミラーは人間の脳内で扱える情報の単位を"chunk"(塊)と呼んだ。実験では、例えば、単音節の英単語をあらかじめ千個用意しておく。この場合、それぞれの単語が"1 chunk"である。試験対象者の前で、それらの単語を順不同に次々と読みあげる。その後、試験対象者に、彼が聞いた単語を暗唱させる。結果は、平均してせいぜい5個程度の単語しか覚えていない。
単語だけではなく、視覚情報、音のつらなり、チェスや将棋の局面図ひとつひとつ、さらには、一連の局面図、工場の日々の操業パターンも、それぞれに"chunk"である。"chunk"個々の大きさはさまざまだが、ミラーは、人間が一度に扱える"chunk"の数は、経験的にいって7±2であることを見出した。
チェスや将棋について言うと、ずぶの素人にはある時点の盤面のごく一部分が"1 chunk"である。しかし、達人には一連の局面図の集合体が"1 chunk"になる。このように、素質や習練によって、扱える"chunk"の大きさはどんどん大きくすることができる [4] 。
"chunk"を経験とともに逐次的におおきくすることができるのは、人間に備わった"chunking"能力のおかげである。
"chunking"を理解するには、 短期記憶 という言い方よりも、 作業記憶(working memory) という捉え方 [Bran20] の方が良いかもしれない。人間は、感覚器官からの情報や、長期記憶として保存されている情報を、 作業記憶 にいったん入れる。そして、 作業記憶 内の情報に応じて、物事を判断したり反応したりする。
作業記憶 には定まった容量があるが、新しい情報として取り込んだ"chunk"は長期記憶から取り出した"chunk"に付け足して、より情報量の豊富なひとかたまりを形成して扱うことができる。
しかし、人間の作業記憶はなぜ、こんなに限られた数の"chunk"しか保有できないのだろうか。ひとつには、情報が不可避的に不安定で不確かな環境のなかでは、各時間断面において注意を向けなければならない情報量を限ったうえで、判断を早くしたほうが生きのびるには有利に働いたからであろう。
カラスの認知の限界が4程度というのは、カラスが一度に育てる子の数が3〜4羽ということと対応しているとも考えられる。巣を出入りするつど、ひとめで雛の数が確認できるというのは、カラスにとって重要なのではないか。同様に、人間の寿命が短く、子どもの生存率が著しく低かった時代、また、機に臨んで少ない持ちもので動いていくには、多くの場合、一度に三つが操作できれば良かったのかもしれない。それ以上の数は混沌に属していた。
いまも生活者の頭がものごとを処理するしかたは、遠い昔からそれほど違ってない。過去のことはすぐに忘却に洗われてしまい、残った乏しい素材でなんとか未来を探るのである。
多くの人にとって仕事が救いになるのは、日々の繰り返しのなかでchunkingが積みかさなり、狭い世界ではあるが、いつのまにか相当高度な解決能力が身につくからである。必ずしも金銭的な報酬がともなうわけでもないが、小さくない慰謝が得られる。
三つ数えた¶

From The Happy Prince And Other Tales BY OSCAR WILDE, ILLUSTRATED BY WALTER CRANE AND JACOMB HOOD, LONDON, 1910. (The Project Gutenberg eBook).
§74. 三の法則
昔話では、人や物、次々に起きる挿話において、3という数字が好まれる。これは特に
物語に当てはまる。多くの昔話の中で、個として識別できるキャラクターの最大数は
3である。5、特に7は「多数」を意味し、謎めいた、あるいは、魔法的な色彩を帯びる。
12は(特定のキャラクターの)後につづくグループの成員の数として使われる。
それより大きな数は、その数に至るまでの段階的なシリーズを作ることができる場合に
のみ使われる。例えば、一つの竜が3つ、9つ、27の頭を持つといったように。
Olrik, Axel, [Nogle grundsaetninger for sagnforskning.
© 1921 by Det Schonbergske Forlag, Copenhagen.]
Principles for oral narrative research by Axel Olrik;
translated by Kirsten Wolf and Jody Jensen.
たしかに、グリム童話などを見ると、物語に出現する数字は3>7>>5といった順で頻度が大きい。これらの数は、基数として、あるいは序数として使われるが、序数として使われるときは、ほとんどの場合、最後のキャラクター(3番めの息子、7番目の子ヤギ、など)が重要な役割をになう。
オスカー・ワイルドの「しあわせな王子」では、王子の銅像の涙がツバメの上に落ちる、その三滴目がツバメと王子との短い物語の始まりを画す。オルリックは5や7が魔法的な色彩を帯びると述べているが、実は、3にいたったときすでに、その先には未知の領域が広がっている。そして、未知の予感が体験に意味を与える。それが、物語の中のみならず、われわれの周囲に「3」があふれているひとつの理由である。
「役に立たない銅像だなあ、雨やどりもできやしない。どこか煙突にでも移動しよう」
そう言って、ツバメは飛び立つことにしました。
でも、翼を広げる前に、3つ目のしずくが落ちてきて、ツバメが見上げると、
どうしたことでしょう。
涙が幸福な王子さまの目からあふれ、金色の頬をつたっていました。月の光に王子の顔は
とても美しくて、小さなツバメはかわいそうな気持ちでいっぱいになりました。
「あなたは誰?」 ツバメは言いました。
「ぼくは幸福な王子なんだ。」
「じゃあ、なんで泣いてるの?」ツバメはききました・・・・・・
2021年10月6日
[1] | 「数」の歴史については [TDanzig] を参考にした。動物の数感覚については [Deh97] を参照した。 |
[2] | 動物の数感覚に明確なしきい値というものはない。良く使われるのは、いわゆるWeber分率( w )である。動物は二つの数、nとn'との距離( \(\Delta n\) )が相対的に離れていれば区別ができるのだが、近いと区別がつかなくなってくる。ある数nに対して、別の数n'を50%の確率で識別できるとき、 w を次式で求める。 \(w = \frac{\Delta n}{n}\) 。カラスに対して、大きさのまちまちな黒丸を30個まで画面上にランダムに分散させて、識別させた実験では、平均の w は1.3前後となった [Ditz16] 。したがって、比較的高い確率で区別できるのは、4個と3個あるいは5個との違いていどである。10個と9個あるいは11個の区別はむずかしい。 |
[3] | 内容豊富な"chunking"を作れているかどうかが、単に知識としてのみ知っていることと、本当の専門家として知っていることとの違いになる [Prietula] 。 |
[4] | ウィリアム・ジェームズ"感情の物理的基礎"(1894)、ヒューゴー・ミュンスターバーグ"心理学と歴史"(1899)、ジョン・B・ワトソン"行動科学から見た心理学"(1913)、ルイス・サーストン"比較判断の法則"(1927)、ウィリアム・ケイ・エステス"学習の統計理論に向けて"(1950)、エリオット・ステラー"動機の生理学"(1954)、ジェームズ・ギブソン"対象物の運動と主体の動きの視認"(1954)、ジョージ・ミラー" 魔法数7プラスマイナス2: 人間の情報処理能力の限界"(1956). |
[TDanzig] | Tobias Danzig, Number the Language of Science, 4th ed., 1954, reprinted by Pi Press, New York. |
[Deh97] | Stanislas Dehaene, The Number Sense, Oxford University Press, 1997. |
[Ditz16] | Helen M. Ditz and Andreas Nieder, Numerosity representation in crows obey the Weber-Fechner law, Proc. R. Soc. B 283:20160083. http://dx.doi.org/10.1098/rspb.2016.0083 . |
[Miller56] | Miller, G. A. (1994). The magical number seven, plus or minus two: Some limits on our capacity for processing information. Psychological Review, 101(2), 343–352. https://doi.org/10.1037/0033-295X.101.2.343 . |
[Bran20] | Russell J. Branaghan, Stacie Lafko, Chapter 120 - Cognitive ergonomics, Editor(s): Ernesto Iadanza, Clinical Engineering Handbook (Second Edition), Academic Press, 2020, Pages 847-851, ISBN 9780128134672, https://doi.org/10.1016/B978-0-12-813467-2.00121-8. |
[Prietula] | Michael J. Prietula and Herbert A. Simon, The Experts in Your Midst, Harvard Business Review, (January–February 1989) . |